時代の陰に消えた涙は何を見て何を望んできたのだろう。
毎夜毎夜、龍の様に、泣き叫ぶ声が止まない陰間茶屋。青い建物に閉じ込められたレオンは、長い鎖国の時代の被害者だった。遊郭で働く女郎が産んだ子供は当たり前のように女郎になったそんな時代。
偶然の出会いから天然理心流の土方に出会い、お互い最低の出会いだったにもかかわらず、なぜか互いを意識していく。
綺麗な透き通る白い肌、高値のついたそんな少年が、なぜか一晩売られた先に居たその男はオオカミのような目をした土方だった。
己の信念を貫くため感情を犠牲にする土方とそんな男を愛してしまったレオン。陰間であるレオンに自由意思はなく、共に生きたいとただ夢だけを見ていた。
沖田総司を交えた三人の感情が江戸吉原に絡み合う。
BL歴史小説・ほのかなエロスの全年齢向け
1
そとはガタガタと風が吹き、江戸じゅうの店はあまりの暴風にこぞって店を閉めた。
小料理屋の裏側の扉がちいさくなっている。
「音がするな、天狐」
調理場のかたずけをしていた二人は、少しの間耳を澄ませていたが、それ以上ならない音に、気のせいだと片付けを続けた。
ガタン
やはり大きな音がする。
「ちょっと見てくる」
天狐は持ち前の好奇心でそう言うと、しのびあしで裏口へと行った。
そーっと扉を開けると、そこには165はあろうかという長身の青年が立っていた。
どう見ても色を感じさせる身なりに、遊郭の匂いは明らかで、朝の号外を思い出して、あわてて中に引き入れた。
「あんた、まさか」
少しの間ほうけていた青年は、思うことがあったのか慌てて首を振った。
「……違います。足抜けなんかしてません」
「良かった」
天狐の百面相にくすっと笑うと青年は続けた。
「それにもし足抜けなら、匿ったらあなたも拷問ですよ」
2
店内に引き入れた青年の青白い肌は透き通るようで、欠陥の浮いた白い手が何とも言えない色気を醸し出していて、まるでこの世のものとは思えないような姿に天狐は息をのんだ。何言か交わしたのち、あまりに寒そうないでたちに、何も構っていなかったと思い慌てて茶を出した。
温かな茶は青年の前に置かれたが、彼は黙ってそれを見ていた。
「どうぞ」
天狐は茶をそっと前に押し出した。
「名前はなんていうの?」
「レオン・高柳と申します」
「ふうん、あたしは天狐。この店で隼人と一緒に働いとるよ」
寒いだろうと勧めた茶も、レオンと呼ばれる青年はにっこりと笑うだけで口をつけようとはしない。好意は押し付けるものではないと隼人に教え込まれている天狐は、それには触れず、ただ一口、自分の湯飲みに口をつけた。
「脚抜けは重罪。そんなこと遊女でもないあたしですら知ってる。それに置き屋の横に小姓が住む遊郭みたいなものがあるって聞いてて、あまりに綺麗であたし、レオンさんがそこの人かと思ったんよ。ごめんなさい。それには確かに年があわんよね」
「あそこは10代の少年がいる場所ですから、私では少しトウが立っておりますよ」
そんなことないと首を振る天狐の慌てぶりを見ていたレオンは、優しそうな眼付きで出された湯呑を見つめ、くすくすと笑った。
バツが悪そうに鼻の下を擦る天狐は、幾度も湯飲みに口をつけた。
「何でこんな風の強い晩にわざわざ出てきたの?」
もう外を歩くような物好きなどいないという位には、外は荒れていた。
「何故でしょう。何と無くあなたに会いたかったのかもしれません」
「うちに? うち、あんさんとおうた事あらへんとおもうんやけど」
天狐はぽかんと口を開け、あけすけにものを言った。
「ねぇ、その白い長いものは何やの。少し汚れとるよ」
レオンは、肌寒いだろうと思うような薄着で、小さな布切れを手に持っていた。
「これは私の大切な宝物です」
見た事がある。天狐はそう思ったが、それがいつのことなのか誰のものなのか、思い出す事が出来なかった。
「天狐、誰か居たのか」
奥から隼人が顔を出した。
「隼人、この人レオンさんっていうんよ」
そう隼人の声をかけると、隼人は怪訝そうな顔をして天狐を見た。
「誰の事だ?」
慌ててレオンの方を振り返るとそこには誰もおらず、湯飲みだけが湯気を立てていた。
「ちょっと待って?」
「幻覚でも見たのか?」
呆れたような隼人の言葉に、背筋が少しばかり寒くなった。
「今ここに、綺麗な人がおったやろ?」
天狐は狐につままれたような顔をして席を立つと、さっきまでレオンが座っていたはずの席に歩み寄った。
そっと席を触る。人の熱で温められていたはずの椅子は、なんともひんやりしていた。
「お前大丈夫か?」
隼人が天狐に声をかけ、肩に手を置いた。
「いや隼人……今までここにおったんよ。白いハチマキ持った人が……」
「ハチマキ……? 待て、天狐。どんな人が座っていたって?」
「色白の背ぇの高い青年や。レオンって名のっとった」
「青年? 少年ではなくて?」
天狐は首を振った。
「青年や」
隼人は青年に覚えはなかったが、その名前に覚えはあった。ただそれは天狐に出会うよりも遥かに昔の記憶であったし、そしてそれは少年であった。ただそれを天狐に言った所で、にわかには信じがたい事になるのは明らかだった。
「……帰ったのだろうよ」
「隼人? 帰ったってどこに」
「さぁな」
隼人の目が、湯飲みに注がれた。湯呑から動かない隼人の視線に天狐は違和感を感じ、視線を追った。
その湯飲みには亀裂が入り、そこから温かな茶が流れ出ていた。
「これ、土方さんが気に入って使っていた湯飲みやったよな」
小さな声で天狐がそう言うと、隼人はコクリとうなづいた。
時は1867、明治に元号を変える少し前の出来事だった。
◇
時は江戸・幕末、1855年、治外法権がまかり通っていたここ吉原では、恋を貫くことは命がけであった。