高度10キロメートルの告白
プラットホームにて
空は澄み渡るように青く、鳥が耳心地のいい声で鳴き、古い木の柱に絡まるように緑燃ゆる頃、ラファエルは慣れ親しんだプラットホームに足を踏み入れた。
それは八つのシーズンを終えた二度目かの春だった。いつもの様に二号車を降りると、改札までのんびりと歩いている。薄茶色の柱の上の方に鳥の親子が巣を作っているのを見つけると、数時間前まで一緒に遊んでいた一歳児を思い出す。
鳥の名前の区別など何一つかないラファエルは、その綺麗な羽の小鳥に向かってはにかむように微笑んだ。ピーピー良く喋るところも璃羅に似ていると何かを思い出す様に口を開いた。
「良く喋るなぁ」
外野では幾度となく繰り返される同じ様な到着アナウンスに、お決まりの欠伸が出始めた。
そもそもそれはいつもと何ら変わらない場景だった。三人ほど座れる木の椅子に、時折何か書いてある案内板。新聞売りの子供に何故か毎回いるおばぁさん。その横に居るはずの無い人物がポツンと座っていた。
今日帰る。それだけの短いメールにアイツは何故かピンポイントでここに迎えに来ていた。それも飛行機か電車かバスかもわからない恋人のために。
「もう少し分かりやすい帰宅連絡はないものか? 堪に頼る羽目になった」
「迎えに来てとか言ってないけど……そもそもなんでTGVって思ったんだ」
アランは眉毛を寄せ吞気な恋人を抱き寄せ、「電車の方が好きだろう」と言った。
到着ホームは列車がひしめき合う雑踏の中、夕方につく長距離列車にあたりを付けアランはホームでのんびりと恋人を待っていた。
ベンチにはまだ湯気が出ているコーヒーらしきものが二つ置かれていて、春の風にしては冷たい気温に、その飲み物に手を伸ばした。
「ブラック?」
ラファエルはまさかとあたりを見回す。
「だれか探しているのか」
重低音の朗々と響くいい声が、今は何かを隠す様にくぐもった声に変わっている。
「嘘下手なんだからやめればいいのに。どうせいるんでしょ。コーヒー二つあるじゃない」
「おまえの分だとは思わないのか?」
「僕も最初はそう思ったけどね、中身見たらそんなことは考えないでしょう。ブラックコーヒーを飲まない俺にアランが買う飲み物としては少々不適切じゃない」
「相変わらず冷静だな……」
柱の陰から背の高いガタイのいい男が出てくるのが見えた。
三枝涼という今一番会いたくない男が、ラファエルの目の前で足を止めた。
俺はゆっくりと振り向くと嫌そうに手を振った。
「そんな邪見にするな」
アランが激ヤセした時のような憔悴しきった感はこの男には無い。
自他共に認める悠フリークの俺としては、あまりの普通さに複雑な気分を隠せないまま眉根を寄せた。
「電車つっかれたー」
「どこから帰って来たんだ」
やはりいなくなってそんなに憔悴しているようには見えない。
「勝手に想像したら良いじゃない」
涼より悠。ラファエルにとっては単純な図式だった。
「そんな言い方をしなくてもいいだろう」
「出来れば今あんたの顔なんか見たくないんだよ。そんな気遣いすら出来ないの?」
「気が利かないのは謝る。だから教えてくれ。頼む」
深々と頭を下げる。
想像もしていなかった光景に、アランは目を丸くしていた。
「あんた、五つも年下の子に……何してるのさ」
笑いを堪えながらラファエルは指に絡み付く紙の感触に気がついた。
手にチケットを握っていた俺は、すかさずポケットに入れた。
そのポケットに無造作に手を突っ込んでくる。
「痴漢かよ! エロジジィ」
悪びれもせずに「悪い」と言うと、チケットの表面を確認した。
「今からニースに言ってくる」
どこに電話しているんだ? このおっさん。
ラファエルが電話口に耳をそばだて、聞き耳を立てていると、電話口から大声が漏れ聞こえ、携帯を耳から遠く話した涼は、黙って通話を終了した。
「怒られた……」
「なんて言われたんだ?」
アランが経過観察をするかの様に涼の側によると、「帰ってこいバカか」って言われたと憮然とした顔をしていた。
「そんだけ?」
つい口を挟んだ俺は直後大量に後悔することとなったが、とりまその非現実的な衝動といえなくもない、涼の行動をとめる人物がアッローロにはいる。
「もう少し詳しく話せないのか?」
アランが聞く。俺としては深入りは避けて欲しいし、悠フリークとしては、悠の望まぬことは尚更避けて通りたい。
「ニースにいるらしい。探したいから今から行っていいか? と聞いたら、明日は古くからのお客様も予約が入っていて……それでなくても悠君はお休み? って残念がられているのにシェフが休みなんか言えるわけがないでしょう。あなたは店を潰す気ですか! とリークに怒られた。潰す気なんかあるわけないし、そんなことしたら悠に会わす顔がないから……仕方がない、今日はこのまま帰るさ」
うわっアランがよからぬ事を考えている顔になっている。
「ラファエル、明日は俺が居なくても、店はラウールに任せて……」
「ダメ! ダメに決まってるでしょう。あんた達馬鹿なの? 料理とったらほんと何にも出来ない木偶の坊だよね。いい加減にしてよ」
俺は良い案だと顔を見合わせ頷きあう二人の馬鹿にかける言葉を見失っていた。
「そもそもニースに行ってどうすんの!」
「帰ってきてって頼む!」
————邪魔をするな。
「アランもアランだよ。涼の料理をあなたが作ってどうする気だよ。あんたらまじで脳ミソ溶けてんじゃない? んなことして、アイツが許すわけないだろ! 余計ないざこざ持ち込むな!」
「でも今日帰ってきたならまだいるかも知れないじゃないか。明日ではもう引き払ってるかもしれんのだぞ!」
三枝の声が若干震えているのは誰が聞いても一目瞭然だった。見た目よりずっとへこんでいるのだとラファエルも理解していた。しかしこいつはそこまで悠の性格をわかってて何故今動くのだろうかと、頭をポリポリと掻いた。
「ほんとに良くわかってるじゃないか……でもそれなら、既に今日いない可能性もある。しかも予約ほっぽって探しにきた。悠はどう思うかな……」
「接点をすべて……断つ……な」
————さすが旦那。
「そこまで理解出来ているなら、今は止めろ。タイミングは今じゃない……」
「すでに二年も待ったのに……」
手をぎゅっと握りしめ、不安を払拭するように首を振った。
「ラファエルどうにかしてやれないか?」
アランが口を挟む。同じ匂いがするのだろうか。どうやら不憫になるようだった。
「涼が好きならアラン……邪魔をするな」
俺の口調も目もすわっていたようで……二人はお互い顔を見合せ、肩を落とした。
「ラファエル、待てば勝算はあるのか?」
一八〇も優に超えた長身から見下ろされる視線は、想像以上に不安そうだ。金輪際二度と会えないかもしれない、そういう不安は理解できる。本当のことを言ってしまいたい衝動にかられたラファエルは、それでもグッと言葉を飲み込む。
浅黒い大型犬のような涼は 捨てられた子犬のように、尻尾を丸めるように項垂れた。
しかし今回のことに関して、ラファエルには、絶対の自信を持っている事があった。
————悠は涼と暮らしたい。
アイツは涼のもとで、年をとりたい。
これだけはゆるぎない事実だ。いかに天邪鬼な悠でも、これだけは絶対にそう思っているとラファエルは確信していた。
確率は常にフィフティフィフティ。それでもこれだけは、天地がひっくり返っても変わらない。
悠は涼のそばで死にたいはずだ。
俺は口を開いた。
「待てば海路の日和有り!」
それを聞いた涼は髪の毛にぐしゃりと手を入れ、その手をだらりと垂らした。
「分かった」
想い出のシャススプリーン
「なあ涼、今年は出よう。もう何年も出てねぇぜ」
リークは雑誌をめくりながらエントリー表を手に取った。近くにいた泰河も同じように頷いている。
ラファエルにタイミングが悪い。時機を待てと言われてプラットホームで我慢したあの日から2年以上の歳月が流れた。
三枝は決して探すことは諦めていない、それどころか内緒でニースにも行っていた。
それでも何一つ情報は上がっては来なかった。
三枝にとって自分の店は到底手放せるような軽い代物ではない。そもそも店を手放したが最後、二度と悠は顔を見せてはくれないだろうことくらい三枝にも分かっていた。
空き時間は全て愛しい人を探す時間にあてたい三枝にとって、コンクールなどどうでもいいものだった。いくら言っても首を縦に振らない三枝に業を煮やした仲間たちは、外堀を埋めるべく奔走していた。
そのかいあって、今日は連休を兼ねて隣国フランスよりアランやラファエル、ラウール等がアマルフィに訪れ、乗り気にならない三枝を口説く役目を、なんとあのラウールが買って出てくれていた。
「今年のテーマ食材はフルーツだ。サイドストーリーのテーマは【素直になれない恋人達】に捧げたいコース料理」
「お前らにおあつらえむきのテーマじゃないのか?」
ワルキューレでスーシェフを務めるラウール・シモンはリンゴを片手に袖でキュッキュッと拭くと、そのままがぶりとかじりついた。
「お前ら……とは?」
涼は話半分に聞きながら、本日のお品書きを書いていたが、何を思ったかペンを机に起き、冷蔵庫から赤ワインを出してきた。
「飲むか? 今日はどうしてもこれを開けなきゃならん」
「シャスか。勿論、頂こう……」
ワイングラスを人数分出すと涼はコルクを開け、静かに注いだ。
「これなんてワイン? フランス産だよね」
ラウールの影にかくれて見えなかった年齢不詳の細身の青年は確かアランの所のパティシエだ。
「みずきくんだっけ?」
涼が聞くと、「自己紹介まだだったっけ? 東條 瑞希、瑞希でいいよ。ファニーフェイスですけど三十路は既に越えてるよ」
「俺は涼で構わない」
大して興味もないのか年齢の件には一切の反応を見せず、ただ名前を交わすだけのやり取りだった。
「僕はラファエルとタメだから、流石に五つも年上の人を相手に呼び捨てはしづらいです。涼さんでいいですか?」
くりっくりの可愛い目と栗色の髪の毛の青年に、小首をかしげながらそう言われて、涼は優しく笑い頷くと、「このワインはシャス・スプリーンと言うワインだよ」と答えた。
【CHASSE・SPLEEN】
「フランス語だから意味はわかるだろ?」
ワイングラスを瑞希君に渡しながらそう聞く涼はアランやラウールにもグラスを渡していく。
ジンクスは担ぐ質なんだ。
目に染みるような青空を見上げ、年齢と共に眩しさが増す空に年をとったと感じながら……空の向こうに愛しい男をみる。
【四巻冒頭部分です】
